松野一松という男

おそ松さん沼にはまったおかげでしばらく疎遠だったニコニコ動画に久しぶりに入り浸り、片っ端からおそ松さん耐久動画を見る日々を過ごしています。

そんな中『一松というキャラが分からなくなる動画』を見ました。

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ローテンションに自虐をするかと思えばノリノリでコントをしたり踊ったり、迷子の猫との再会に涙を流したと思えばゲス顔キレキャラとして振る舞ったりする一松。キャラが分からないと言われるのも頷けますね。

でも、キャラがぶれているというにはあまりにも彼の行動には一貫性があり、彼の人格をよく反映していると思うんです。


松の内面を知るといえば、突然の感動回であった『エスパーニャンコ』回。この話については今更蒸し返すこともないほど様々な人が考察に考察を重ねていますね。でも積極的に掘り返していきましょう。

キモチ薬を飲んだエスパーニャンコは、

 

「なんで僕には友達ができないの」

「まぁ、そんな価値、自分にあるとは思えないけど」
「怖いんだよなぁ、人と距離を縮めるのが」
「自分に自信がない」
「期待を裏切っちゃうかも、自分が」
「(猫は言葉通じないから)だから傷つかないし」
 
と、リアルすぎて聞いてるこっちもつらくなる言葉の数々を、一松の本心として語ります。そして、
 
「友達なんかマジいらねぇ、だって僕にはみんながいるから」

 

という、一松が兄弟に最も聞かせたくなかったであろう本心を暴露し、この会話劇は終了します。この「だって僕にはみんながいるから」という言葉こそが、ブレて見える彼のブレない根底なのです。

一松は、自分が他者に対して上手く振る舞えるか、という不安を抱えています。彼が友達を作らないのは周囲の人間を敵だと思っているからではありません。むしろ反対で、人と関わることで、自信がなくて、弱気で、無価値な自分が曝け出され、周囲の人間に敵(=異物、不要物)だと思われるのが怖いからです。人の目を極度に気にする小心者、それが松野一松です。

ここでひとつ疑問が浮かびます。そんな彼が、なぜ社会から後ろ指をさされるニートとして生活できているのか?という点です。この答えが「だって僕にはみんながいるから」という言葉によって示されています。

 

上述した、ニャンコにより暴かれた本心は「人」に向けたものです。「人」とは「他人」であり「友達」になりうるもので、一松にとっては自分を否定するかもしれない、恐怖の対象です。

それと対比する形で描かれているのが「みんな(=兄弟)」であり、ダメな自分を否定しない、受け入れてくれる存在、自分を嫌うことのない存在なのです。

 

一松は、一匹狼で生きていけるほど強くありません。

それどころか、嫌われることに怯えるまでに人との関わりを渇望しているのです。一松が社会の逸脱者であるニートとして生活できるのは、彼を唯一認めてくれる「みんな」がニートだからです。ニートであろうとなかろうと結局「人」は自分を受け入れてはくれませんが、でもニートであれば、少なくとも「みんな」の仲間でいられるのです。

 
ここで、ほかの兄弟たちに目を向けてみると、意外と皆外部の人間と関わりを持っていることが分かります。
トド松は言わずもがなのコミュ力おばけで、十四松は恋もするしホームレスのおじさんに挨拶もします。チョロ松は一緒にヲタ芸をする追っかけ仲間がいて、カラ松はカラ松girls探しと称して逆ナン待ちをしています。おそ松は個人的にイヤミと遊び、初対面のアイドルに馴れ馴れしく話しかける程度には人と関わることに抵抗がないようです。
しかし一松は、兄弟以外に人との関わりを持っていないのです。猫しかいません。もちろん、カラ松も逆ナンされることなどなくぼっちで過ごしていることに変わりはないのですが、他人との関わりをもつべく努力できているという点で一松とは一線を画しています。こういったことから、一松は必然的にほかの兄弟にくらべて6つ子の繋がり強く固執することになります。
 
一松は兄弟の世界とそれ以外を明確に区別しています。コントも踊りも、兄弟ならば受け入れてくれるとわかっているからこそできる行動です。逆にハローワークでの個人面談では、受け入れられず傷つけられることをおそれ、淡々と自分を卑下することしかできないのです。日々の喜びも鬱憤も、松野一松を彩る感情のすべてを兄弟内でしか発散できない彼は、内弁慶といえる性質を持っています。(公式で"優しい人"という設定のある)カラ松に対する理不尽な態度や、扶養者選抜会議における兄弟(家族)への脅し文句がその例です。身もふたもない言い方をすると、家族、特に兄弟に対して極限まで甘えているんです。
 
さて、一松といえばスタバァでの脱○未遂ですが、その他にも、自分たちを騙したイヤミとチビ太に兄弟を代表して拇印を迫ったりカラ松に石臼をぶつけたりと、兄弟内でも特に過激な行動が随所で目立っています。
ここでのポイントは、彼が過激な行動をするときは必ず「みんな」が一松の味方についている、という状況です。6つ子が世界のすべてである彼にとって、「みんな」と同じ感情を持っているということは最強の後ろ盾です。文字通り世界を味方につけた勢いで行動できるのです。ここからも内弁慶らしい彼の性質が垣間見えます。
 
一方で、6つ子の行動に対して「帰ろう(帰る)」と発言することが多いのも一松です。一度目は就活を続けるチョロ松に対して、二度目はスタバァで働くトド松にちょっかいをかける兄弟に対して、三度目はデートする十四松を見守る兄弟に対して、「帰ろう」という言葉によってこれ以上関与しないというそぶりを見せました。これはなぜなのでしょうか。

一松は、前述のとおり本来は人目を気にする気弱な青年です。繊細でまじめな面をもつ、と言い換えることもできますね。就活もバイトもデートも、彼らの年齢的には社会的に「正しい」行為です。
まじめな一松は、6つ子の世界が壊れることを誰より恐れながらも、正しく強大な「社会」に自分たちのちっぽけな世界が勝てないことを頭で理解しています。だから一松は、社会に迎合しようとする「みんな」から目を背けることしかできないのです。正しい行為を糾弾するほどの度胸もなく、家族として応援する心の準備もない彼は、「みんな」が自分の世界に戻ってきてくれるよう祈りながら、家で待つことしかできません。
 
無関心を装いながら、誰よりも兄弟に固執し、甘え、いびつな世界と知りつつもそれを守りたいと願うちっぽけな青年、それが松野一松という男なのです。